安倍晋太郎氏は、父の寛氏の十三回忌にあたる1958年、父の代からの支援者らの期待に応え、衆院山口1区で当選した。初陣を飾った晋太郎氏は3回目で1度落選したものの、順調に当選を重ねた。官房長官や外相、自民党の政調会長などを歴任し、政界の階段を着実に上っていった。
87年には、「安竹宮」と並び称された竹下登氏、宮沢喜一氏と首相の座を争った。当選同期の盟友、竹下氏と一本化を目指して話し合ったが互いに譲らず、首相だった中曽根康弘氏は竹下氏を後継指名した。
晋太郎氏は後に、山田禎二さん(82)にこう語ったという。「竹下君を(説得して)コーナーまで追い詰めたが『うん』と言わない。最後に『僕の方が当選回数が多い』と言われ、二の句が継げなかった」
晋太郎氏が1度落選したことが、首相選びにも影を落としていたのだった。
晋太郎氏は竹下氏の次の首相と目されながら、91年に病で世を去った。
晋太郎氏の妻の洋子氏(95)が著した「わたしの安倍晋太郎」にこんな一節がある。
「地元の山口県では、それまで初代総理の伊藤博文から戦後の岸信介、佐藤栄作まで、歴代七人の総理大臣を生んでいる土地ですから、主人の後援会の方々も大臣経験だけでは満足していただけません。後援会の集まりがあるたびに『いずれ安倍晋太郎を総理総裁に』という言葉が、皆さまの口にのぼっていたのでした」
「会社やめたくない」と言った晋三氏 周囲の期待は初当選時から
晋太郎氏の足跡をたどった「…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル